天明鋳物とは、下野国佐野天明(栃木県佐野市)の地で作られた作品、佐野の鋳物師によって作られた作品をいいます。
さらに、佐野の鋳物業そのものを指す場合もあります。
古くは天命、「明」を「命」と書かれていたそうです。
古文書などから、江戸時代初期頃までは、「天命」であったと考えられます。天命は元々この地方の地名で、後に天明と変わりました。
従って、伝統ある鋳物業の起源としては「天命」ですが、一般的に江戸時代以降の佐野の鋳物を表す場合は「天明」が適当と考えられます。
鋳物の発祥が700年河内丹南(現大阪)ですが、河内丹南では今は鋳物は作っておらず、現在実際に作っている中で佐野は”最古”となります。
伝統ある鋳物業としての起源は平安時代、天慶2年(939年)平将門の乱のため、藤原秀郷が武具制作者として河内の国(現大阪)から5人の鋳物師を佐野に移り住まわせたことに始まりまると伝えられています。
安土桃山時代に茶の湯の流行と相まって、
天明の茶の湯釜の野趣に富んだ素朴な作風な作風は、
茶人に大いに好まれ、技術の優秀さとあわせて、
九州筑前の芦屋(福岡県芦屋町)の釜とともに
「西の芦屋に、東の天明」 |
として天下にその名を知られました。
茶道の大成者で茶聖とあがめられる千利休が、天命釜で一会を催した旨の文献も残されています。
平成10年5月佐野市と芦屋町は親善都市の締結をし今日も交流を行っています。
●「織田信長と平蜘蛛釜」
信長は欲しい茶道具があると、武力で手にいれようとしました。
平蜘蛛釜を所持していた松永久秀という武将は、釜の差し出しを拒み、粉々に砕いて落城の中で切腹し果てたということでした。
●「豊臣秀吉と責紐釜」
秀吉は、天明釜の中の責紐釜が大変気に入っていたと伝えられています。
天正15年10月の有名な大茶会に使用されていたことが茶会記に記されています。
●「徳川家康と梶釜」
家康は、この天明釜に「梶」という銘をつけて愛用したと言われています。
独創的な形態をした名物釜で、現在徳川美術館に所蔵されています。
徳川家康が豊臣氏滅亡をはかり挑発した事件。
豊臣秀頼が家康のすすめで方広寺大仏を再建した際,同じく鋳造した鐘の銘文中「国家安康」の字句が,家康の名を分割し身を切断することを意味し,「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると非難し,豊臣方を大坂の陣へと追い込みました。
その鐘の制作に天明鋳物師も携わっていました。
日光東照宮、奥社拝殿の裏手にある、奥社宝塔は徳川家康の墓所で高さ5mあまりです。
元和8年(1622年)に木造で創建されましたが、寛永18年(1641年)に石造に改められ、 さらに地震により倒壊した後は天和3年(1683年)に現在の鋳銅製に改められたものです。
建立以来一度も開かれていない宝塔には家康の神柩が納められています。
この宝塔も天明鋳物師の制作したもので、天明鋳物となります。